Tell us your story — 開 結

歯科衛生士

27歳の朝、鏡の中の自分に、目を疑った。
「見える朝」を、一年、待ち続けた人。
生かしてもらった命だから——
とにかく笑って、やりたいことは、やる。

Yu
Hiraki

開 結(ひらき ゆう)

歯科衛生士
臨床感染管理指導士
フリーランス

歯科衛生士歴約28年。1998年に大田区の歯科医院で新卒として働き始め、現在はフリーランスとして、矯正歯科専門クリニックをメインに一般歯科2院で働く。27歳のとき、くも膜下出血で倒れ、約1年のリハビリを経て臨床に復帰した。通信制大学で福祉を学ぶ。夫と、息子がひとり。

ルーズソックスで、歯科医院へ

高校2年生のとき、友達に誘われた。「歯医者のバイト、一緒にやろうよ」。高校生のアルバイトの時給が600円くらいだった時代に、歯科助手は1,200円。「これはもう、なるしかない、みたいな」。セーラー服にルーズソックスのまま、放課後の歯科医院に通った。

母は看護師だった。「手に職をつけなさい」が口ぐせで、勧められたのは福祉の道。でも本人が選んだのは、バイト先の院長の「衛生士になったら、うちで就職させてあげるよ」という言葉のほうだった。1996年、歯科衛生士学校に入学する。

ところが卒業を前に、その約束は消えた。医院の衛生士が辞めて、代わりの人が先に入ってしまった。「私が入る余地が、なかったんですよね」。急きょ就職活動をすることになり、紹介されたのが、蒲田の歯科医院の先生だった。「本当に、ご縁のある先生なんです」。このひとことが、のちに彼女の人生を支えることになる。

1999年の大晦日。世の中が2000年問題で騒いでいた夜、彼女は医院でレセコンを叩いていた。この前、若い衛生士に「2000年問題って、教科書で見ました」と言われて、笑ってしまったという。

「母は、福祉に行きなさいって言ってたんです。今思えば、正解だったんですよ。だって今になって、福祉を学んでるわけで」

27歳の朝、鏡の中の自分

蒲田の医院で衛生士として働いていた27歳のとき、突然倒れた。くも膜下出血だった。意識のない状態が、1か月続いた。生まれつきのもので、前の年には兄が同じ病気で倒れていた。両親が病院に着く前に、電話での許可で手術が始まった。

意識が戻って最初にしたのは、髪の毛を触ることだった。兄は頭を開く手術だったから、自分もそうだと思った。髪は、あった。「見えないから、眼鏡と鏡を持ってきて」と母に頼んだ。母は持ってこなかった。看護師の母は、娘の目に何が起きているかを知っていて、まだ見せないでおこうと決めていた。それを知ったのは、ずっとあとのことだ。

鏡を見たのは、友人が面会に来てくれたときだった。頼んで、見せてもらった。両目が、別々の方向を向いていた。出血の影響で目の神経がやられ、自分の力で目を動かせなくなっていた。右で見れば左が逃げ、左で見ようとすれば右がどこかへ行く。歩けば、ふたつの景色が同時に見える。

「私に、何が起きてるんだろう」。そこから、葛藤が始まった。

「本当にあのとき、なんであのまま死ねなかったんだろうって。すごく、辛い時期でした」

「片目が見えていれば、受付ぐらいなら座ってできるんじゃない?」

衛生士は、もうできないかもしれない。ずっとこの仕事しかしてこなかったのに、ほかの仕事に移るのも難しい。そんなときに声をかけてくれたのが、蒲田の先生だった。突然倒れて迷惑をかけたのに、「リハビリがてら、おいでよ。片目が見えていれば、受付ぐらいなら座ってできるでしょ」。

倒れてから3、4か月。歩くこともおぼつかない身体で、週に3日、半日の勤務から始めた。疲れたら座って、電話を取る。受付と、洗い物と、患者さんと話すこと。「それぐらいだけど」と言って、働かせてもらった。

眼帯をつけて、1日ごとに使う目を替えた。合間に、目の筋肉を自分で動かすトレーニング。すごく疲れて、頭も痛くなる。主治医は「若いから、絶対戻る。朝起きたときに見える日が、絶対来る」と言い続けた。だから毎晩、明日の朝は見えるかもしれないと思って眠り、朝起きて、ダメか、と思う。楽しみと絶望を、夜と朝で繰り返した。

1年ほど経った、ある朝。目を開けたら、まっすぐ見えた。

「朝は目が休まってるから、パッて開いたときに見えるんです。でも昼ぐらいになると、また戻っちゃう。それでも、明日の朝もまた見えるはずだって言って、起きて。その繰り返しでした」

「私という人間が、ここにいたんだよ」

29歳で、衛生士として普通に働けるようになった。ただ、医師からは、出産は難しいと言われていた。出産後に脳血管に影響が出ることが、少なくないからだ。30歳を前に、彼女は考えた。結婚しないかもしれない。もし、また目が見えなくなったら。衛生士だけでは、生きていけないかもしれない。

そこから、歯科以外の学びを始めた。美容のこと。リハビリで知った、身体の使い方。健康維持のこと。学んでみると、意外なほど歯科につながっていた。身体を整えると顎の位置が変わり、噛み合わせに影響する。自分が歩けなかった頃の記憶とも、つながった。「違う分野でも、自分として生きていくことができるかもしれない。自分のため、ですよね」。

結婚は、そのあとに決まった。相手のご両親には、孫を見せられないかもしれないと、先に伝えた。夫は「いなかったらいなかったで、いいよ」と言ってくれた。それでも3年ほど経った頃、思いが変わってきた。夫は長男で、開の名前は彼で終わるかもしれない。そして、それより何より——「私という存在を、覚えていてくれる人が欲しい」。

もう一度、頭の検査を受けた。リスクを聞くと、医師は「交通事故に遭うくらい」と言った。夫婦で決めたのは、期限だった。36歳のうちに自然妊娠で出産すること。それがダメだったら、あきらめる。チャンスは4か月。すぐに、息子が来てくれた。「さすが、運が強い」と、笑う。

「自分の子供だったら、自分の親がこういう人なんだよっていうのを、絶対に知ってて、覚えてくれる。私という人間がこの世にいたんだよっていうのを、後々、誰かが知っていてもらえないかなって」

「自分が、その器具で治療されてもいいか」

感染管理を学びたいと思ったきっかけは、蒲田の医院で、ずっとひとりの衛生士だったことだ。「何が正しいのか、何が間違ってるのかもわからない。クリニックの中では、それで正解みたいな状態で来ちゃったので」。外に出てみると、「そうだろうなと思ってたけど、やっぱりそうだよね」が、ひとつずつ確かめられて、「本当に、学んでよかったなと思います」。

蒲田の医院は、何でも思いどおりにできる環境ではない。だから彼女は、その中でどうすればできるだけ感染管理ができるかを、試行錯誤しながら考えてきた。学んだあとの基準は、シンプルだ。納得して、自分がその器具で治療されてもいいと思えるか。

ただし、やり方は静かだ。蒲田の医院では、滅菌バッグの使い回しをやめた。「意味がないですから」。矯正の医院では、装置を洗う超音波洗浄器にふたをするために、ふた付きの容器を「買ってください」と頼んだ。「いいよ」のひとことで、そこは変わった。使うことの少ない器具の滅菌バッグには、日付を書く。新人に「なんで、これだけ日付が書いてあるんですか」と聞かれて、少し嬉しかった。

完璧な医院は、ない。彼女の3つの医院も、そうだ。大事なのは、いまのメンバーでできる最善はどこか、を自分でわかっていること。そして、ここだけは譲れないという線を、見失わないこと。話を聞きながら、彼女はそれをやっている人だと思った。

「最初からそのやり方だったら、疑問にも思わないんですよ。疑問に思う人が入ってくれたら、変わるんですよね」

もし、自分の娘だったら

いま彼女は、3つの医院で働いている。メインは矯正歯科専門のクリニックで、週3日は必ず入る。ほかに一般歯科が2つ。そのひとつが、新卒から世話になった蒲田の医院だ。自分の産休と入れ替わりで入った衛生士が、今度は産休に入るというので、穴を埋めに戻っている。院長はもう60歳を超えた。「自分より年下の先生のところでは働かない、っていう、私の中の変なポリシーがあって」と笑う。

矯正の医院には今年、衛生士歴が1年の衛生士が入った。ほかの衛生士からすると、自分の子どもと年齢の変わらないくらい若い。「もしこの衛生士が自分の娘だったら、どうやって声をかけたらいいんだろうって、多分みんな、考えちゃうんですよ」。よかれと思って伝えたことで、涙を流されたこともある。だから今は、言うか言わないかを、ひとつひとつ考える。

彼女自身は、教えてくれる先輩がいないまま育った。新卒で入った医院では、2年目から衛生士がひとり。何が正しくて何が間違っているのか、確かめる相手がいなかった。だから、目の前の新人を見ると思う。この衛生士には、教えてくれる先輩がまわりにいる。その分、放っておけない。「どうにかしてあげなきゃ、と思うんですよね、やっぱり」。

「よかれと思って言ってるし、上からにならないようにって、みんなで気をつけてるんですけど。難しいです」

とにかく、笑っていよう

病気のあと、体調の波は大きい。年齢とともに、さらに。落ち込むときは、本当に落ち込む。「でも、それは見せなきゃダメだよって。家族以外の人にはあれだけど、家族には見せないと、助けてもらえなくなっちゃうので」。息子には「今日はこうだけど、明日は元気になるから、ごめんね」と言う。夫にも「身体が本当に優れないから、片付けができない。ごめんね、ちょっと寝かせて」と言う。

その分、外では、とにかく笑っていよう。

夫は、彼女が大学のスクーリングで1日いない日も、レポートに追われる週も、家のことを引き受けてくれる。「頑張れ。目指すものに、挑戦していいよ」。「かなり、助けられてるんです」。

いま、通信制の大学で福祉を学んでいる。30年前に母が勧めた道に、遠回りして戻ってきた。勤め先のサロンでは、身体のケアもする。柔道整復師の学校にも心が動いたけれど、仕事と子育てとの兼ね合いで、今は見送った。それでも「やりたいと思ったら、やっちゃうタイプなんです」。

「生きてるだけでも、あるんで。本当に、生かしてもらったので。だから、やりたいと思ったら、やっちゃうんです」

天職

最後に、この仕事のことを聞いた。答えは、迷いがなかった。

「衛生士って、本当に素敵な職業だと思うんです。私にとっては本当に、天職だなって思うぐらい」。

一度は、できなくなるかもしれなかった仕事だ。受付と洗い物から戻ってきて、また患者さんの口の中を見られるようになった人の「天職」は、私たちが使う同じ言葉より、少しだけ重い。

After Interview

話を聞き終えて、しばらく言葉が出なかった。いつも笑顔の絶えない開さんの後ろに、こんな物語があるとは、想像もしていなかった。

「いろんなものを入れすぎちゃった。自慢に聞こえないかな」と、帰り際に彼女は気にしていた。自慢には、聞こえない。同じ職業の人として、私はただ、嬉しかった。そして、まだまだ頑張らなきゃ、と思った。

「とにかく、笑っていよう」。取材の途中で、彼女がぽろっと言ったこの言葉を、そのままこの記事の入口に置いた。

見える朝を待ち続けた人は、いまも毎朝、笑って診療室に立っている。

撮影 / THE UPPER(東京)
文 / Masayo Hasegawa

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この記事の内容は、ガイドラインと、監修者が臨床で実際におこなっている方法をもとにした一例です。特定の製品を推奨するものではありません。

薬剤や器材を使うときは、それぞれのメーカーの取扱説明書を優先してください。素材との相性はメーカーや機種によってちがうため、確かめたうえで各医院でご判断ください。

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